2016年8月28日日曜日

もし小早川隆景が徳川家康と対決していたら

小早川隆景は1533年に毛利元就の三男として生まれた人物である。当時の元就は大内家に属する国人の一人に過ぎず、隆景は大内家の人質として幼少期を山口で過ごした。1544年に竹原小早川家の養子に入り、1550年には本家である沼田小早川家の家督を継承する。この家督継承には主君である大内義隆の意向が働いていたとされ、隆景は若年にして桓武平氏の名門である小早川家の棟梁となる。小早川家は瀬戸内海でも随一の水軍を擁することで知られており、隆景は小早川水軍を率いて元就の下で戦功を重ねていく。

厳島の戦いで陶晴賢を破った毛利家は安芸の国人から中国地方の覇者へと成長し、隆景も毛利家の中枢において活躍を続ける。1571年に元就が没すると、隆景は甥である毛利輝元の補佐役となり、兄の吉川元春と共に毛利の両川と称された。元春が毛利家の軍事を担当したのに対し、隆景は水軍の情報収集力を活かして主に毛利家の外交を担った。1570年代の後半になると羽柴秀吉の中国侵攻によって毛利家は窮地に陥るが、山陽方面の司令官として秀吉と渡り合ったのが隆景であった。織田信長が明智光秀に討たれると、隆景は秀吉に接近して毛利家の安泰を図る。

隆景の名が広く知られるようになるのは豊臣政権期においてである。秀吉は隆景を高く評価し、四国征伐の後には隆景に伊予一国を与えて独立した大名として扱った。九州征伐の後には筑前と筑後を与え、隆景を輝元と同列の五大老に加えた。九州征伐の陣中に元春が亡くなったため、隆景は1597年に没するまで毛利家を事実上統率する人物であった。西国は小早川隆景に任せれば全て安泰であると秀吉から評価され、徳川家康に対抗できる唯一の人物と見られていた。秀吉は凡庸な輝元よりも隆景を毛利家の指導者と見なしていたが、実直な隆景は最後まで輝元の家臣という立場を崩そうとしなかった。

しかし、もし隆景が輝元から当主の地位を禅譲されていたら。輝元は元来政治に疎い人物であり、豊臣政権期において毛利家の政治は全て隆景が動かしていた。ちなみに徳川政権期においても輝元は従兄弟である毛利秀元と吉川広家に政治を委ねている。秀吉の後押しを受ければ、隆景が名実共に毛利家の当主となる可能性もあっただろう。毛利は京までの道を銀で敷き、徳川は米で敷くと言われたように、毛利家は表高以上の国力を有する徳川家に対抗可能な唯一の大名家である。もし隆景が存命で毛利家を率いていれば、秀吉死後の豊臣政権において家康と互角に渡り合うこともできたのではないか。

家康は福島正則や黒田長政といった武断派に接近していたが、隆景は石田三成や増田長盛といった吏僚派に近かった。家康と隆景が豊臣政権内の派閥闘争を背景に覇権競争を繰り広げるのは間違いないだろう。そして島津忠恒による伊集院忠棟の謀殺事件が戦争の引き金となる。西国での覇権確立を望む隆景は薩摩征伐を敢行して、西国の諸大名を率いて九州に下向する。一方の家康が隙を突いて上方で挙兵するという展開が予想される。大坂城を包囲する家康と九州から帰還した隆景は決戦に至り、隆景が家康を打ち破ることができれば次の天下人となれるだろう。

隆景は西国一円を領国とする代わりに、東国は他の大名の支配に任せ、特に江戸の上杉景勝、金沢の前田利長、名古屋の宇喜多秀家は東国の大勢力となる。しかし、小早川家の勢力は豊臣家を凌ぐまでに成長し、太政大臣の官位を得た隆景はついに豊臣家を大坂城から追放し、豊臣政権に代わる武家政権を樹立する。

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