2016年6月12日日曜日

もしアンリ4世がカトリックに改宗していなければ

ブルボン朝の始祖アンリ4世はユグノーの盟主でありながら、カトリックへの改宗という奇策でユグノー戦争を終結させた。アンリ3世の死によってヴァロワ朝が断絶すると、ブルボン家のナバラ王アンリはアンリ4世としてフランス王に即位した。しかし、パリ盆地を中心とするフランス北部は敵対するカトリック同盟が掌握しており、カトリックが圧倒的なパリ市民もプロテスタントの王を認めなかった。そこでアンリ4世はカトリックへの改宗という元も子もない奇策に出るが、結果的にフランスを統一することに成功した。

ただし、アンリ4世の改宗は後世のフランスに禍根を残すことになる。アンリ4世はナントの勅令によってユグノーに対する信仰の自由を認めたものの、17世紀に入るとブルボン朝はユグノーの弾圧に転じるようになる。フランスの人口に占めるユグノーの割合は10%程度であったが、ユグノーは毛織物や絹織物といったマニュファクチュアの重要な担い手であり、ユグノーを除いてフランスの商工業は成り立たない状況にあった。ラ・ロシェルやボルドーといった大西洋の港における海上交易はユグノーが独占しており、著名な銀行家も全てユグノーであった。フランス経済におけるユグノーの力は圧倒的であり、1685年にルイ14世がフォンテーヌブローの勅令を発令すると、ユグノーの多くはネーデルラント、イングランド、ドイツに移住し、ユグノーの去ったフランスは経済力を大きく損なうことになる。フランスはヨーロッパ最大の人口を誇る一方、産業革命や植民地競争においてイングランドの後塵を拝するようになり、19世紀に入ると新興のプロイセン王国に脅かされるようになるが、フランス経済を担っていたユグノーの流出が要因となっていることは間違いない。

アンリ4世の改宗は短期的にはフランス統一という成果を挙げているが、長期的にはフランス衰退の原因となったのではないか。アンリ4世にはカトリックに妥協しない選択肢もあった。それはフランス国外のカルヴァン派との連携である。カトリック同盟の背後には西ヨーロッパ統一を目論むハプスブルク家の存在があり、スペイン王フェリペ2世はネーデルラントとイタリアに加えて、大国フランスをも支配下に置こうとしていた。フェリペ2世の支配に最も強く抵抗していたのが、オラニエ公ウィレム1世を中心とするネーデルラントのカルヴァン派である。実はウィレム1世はアンリ3世の弟アンジュー公フランソワをネーデルラントの君主に擁立し、フランス王国との連携によってハプスブルク家の支配から脱却する計画を企てていた。西ヨーロッパにおいてスペインに対抗できる大国はフランスを除いて他になく、オラニエ=ナッサウ家との協議次第ではアンリ4世がネーデルラントを勢力圏に加えることもできたのではないか。反ハプスブルクを旗印にカトリック同盟との対決姿勢を打ち出していれば、フランス国民の愛国心を利用してカトリック同盟を瓦解に追い込むこともできたように思う。フランス南部とネーデルラントからパリ盆地を挟み撃ちにすることで、アンリ4世は妥協することなくパリを手に入れることができたはずである。

カトリックの盟主であるハプスブルク家に対して、ブルボン家はプロテスタントの盟主としての地位を確立することになる。三十年戦争においてプロテスタントの盟主となったのはスウェーデン王グスタフ2世アドルフであったが、ブルボン家がプロテスタントの盟主として三十年戦争に本格的に介入することも可能となる。神聖ローマ皇帝の位をめぐるハプスブルク家とブルボン家の対決にまで発展していたのではないか。三十年戦争によってブルボン家はライン左岸を獲得し、ネーデルラントも正式にブルボン家の領地となる。カルヴァン派の拠点スイスもブルボン家の保護国となるかもしれない。神聖ローマ帝国の領域であってもナポレオン戦争までにフランス領となったアルザスやロレーヌはフランスへの帰属意識が強いため、ドイツ西部の諸侯を懐柔することができれば、現代のフランスは東方に大きく領土を広げていたのではないか。

また、植民地競争においてもネーデルラントの海軍力を活かしてフランスはイングランドと十分戦えるようになるだろう。ネーデルラントも史実では英蘭戦争に敗れており、フランスとの連携はWin-Winの関係となる。第二次英仏百年戦争の結果、フランスは北米大陸とインドから完全に撤退することとなるが、ネーデルラントと連携する場合は結果も異なってくるだろう。カナダとルイジアナは確保し、インドもイングランド一国による独占支配ではなく、フランスとの分割という形になったのではないか。

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