2016年3月5日土曜日

もし毛利家が第二次信長包囲網に参加していたら

織田信長の天下取りは決して順調ではなかった。1568年の上洛を機に濃尾地方から畿内に勢力を拡大した信長であったが、度重なる包囲網の形成によって1570年代の前半においては停滞を強いられた。第一次信長包囲網が形成された際は、朝倉家、浅井家、三好三人衆といった近畿の勢力が信長の都落ちを狙っており、伊勢長島でも一向一揆に苦戦を強いられていた。第二次信長包囲網では足利義昭との対立が決定的となり、強敵である武田信玄との対決も迫っていた。信長は常に失脚する恐怖に脅かされていたはずである。

信長にとってターニングポイントとなった年は1573年である。三方ヶ原の戦いにおいて徳川家康を降した武田信玄は信長の本拠である濃尾地方に迫っていたが、突如として病死してしまう。武田家の撤退を契機として、反撃に出た信長は足利義昭を京都から追放する。また、宿敵である朝倉家と浅井家を滅ぼして、三好三人衆も追放することに成功する。1573年は信長政権が確立した年であり、この年を境として信長に単独で対抗できる勢力は存在しなくなった。

信長政権の誕生を防ぐことができたかもしれないキーマンが一人いる。それは小早川隆景である。1571年に毛利元就が亡くなると、小早川隆景は兄の吉川元春と共に毛利家の指導者となった。既に中国地方の覇者として君臨していた毛利家は信長に対抗できる唯一の存在であったが、大内家の旧領である北九州の領有を争って大友家と対立していたため、1570年代後半に至るまで信長とは良好な関係を保っていた。しかし、毛利家が西に目を向けている間に織田家は急成長を果たし、最終的に毛利家は滅亡寸前まで追いつめられることになる。毛利元就も小早川隆景も先見の明を持った人物であり、早い時期から織田信長のことを高く評価していた。そのため信長とは友好的な関係を築いていたが、巨大な勢力である毛利家と織田家の対立が避けられないことは目に見えていた。小早川隆景は豊臣政権の時代となって秀吉から随分と高く評価されたが、天下を取るには勇気が足りないと言われたという逸話が残っている。小早川隆景に勇気があれば歴史はどのように変わっただろうか。

毛利家は1566年に尼子氏を滅ぼして中国地方の覇者となった後、北九州への進出を図るようになる。しかし、大友家と同盟を結び、思い切って上洛を目指すという選択肢もあったはずである。上洛の途上には備中の三村家、備前の浦上家、播磨の赤松家、小寺家、別所家が控えているが、いずれも毛利家とは比較にならない中小規模の大名である。北九州の覇者である大友家と比べれば降すのは容易く、山陽道の攻略に集中すれば1570年代の前半に毛利家が山陽道を制圧することも不可能ではない。畿内への進出が可能となった毛利家は第二次信長包囲網に参加し、信長を京都から追放することもできただろう。

信長を京都から追放した後も、織田家が早々に滅びるということは考えにくい。肥沃な濃尾平野を領有する信長は5万の大軍を動かすことが常時可能であった。兵站の延びきった毛利家が信長を追撃することは難しい。毛利家の課題は畿内に安定した地盤を築き上げることである。そこで上洛後の当面の標的は三好家の残党勢力になると思われる。織田家の以前に畿内を掌握していた三好家の残党は1570年代においても畿内に勢力を誇っていた。そこで毛利水軍を活用して三好家の本拠である阿波と畿内を分断しつつ、徐々に毛利家の勢力を畿内に浸透させていく戦略となる。

地政学的に毛利家が東国に進出することは難しい。そこで毛利家は朝倉家、武田家などと連携を図りつつ、織田家を封じ込めていく。長期的には朝倉家、織田家、徳川家、武田家、上杉家、北条家、佐竹家、伊達家による勢力均衡状態が東国には生まれる。一方、西国では毛利家が着実に勢力を拡大する。小規模な勢力しか存在しない四国の平定は毛利水軍の力があれば難しいことではない。また、九州においては島津家と龍造寺家による圧迫を受ける大友家が衰退の一途を辿り、毛利家への従属を余儀なくされる。島津家と龍造寺家を退けた毛利家は博多を獲得し、西国を支配する巨大勢力として君臨する。毛利家が幕府を開くかは定かではないが、経済力を武器に朝廷を支配する平家のような政権を築いたのではないか。

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