2015年10月18日日曜日

もし毛利家の九州移封が実現していたら

徳川家が小田原征伐後の関東に移封させられたように、毛利家も九州征伐後の九州への移封が検討されていた。東の大勢力である徳川家を都から遠ざけようとして関東に国替えしたのだとすれば、同じく西の大勢力である毛利家を都から遠ざけようとしても不思議ではない。毛利家は大坂に通じる瀬戸内海の制海権を握っており、豊臣政権から見て本来は徳川家よりも危険な存在である。小早川隆景が毛利家の九州移封を回避するために奔走したという話もあるが、徳川家が関東移封によって勢力を強めたことを考えれば、九州移封は毛利家にとってチャンスになっていた可能性がある。

毛利家は九州征伐の段階で、山陽山陰に120万石、四国征伐後に小早川家に与えられた伊予も含めれば160万石にも達する石高を有していた。しかし、毛利家は当時の多くの大名と同様に地方領主の独立性が高く、信長や秀吉のような集権的な政治体制は築けていなかった。国替えは毛利家が集権的な政治体制を築き上げる絶好の機会であった。独立性の高かった地方領主も見ず知らずの土地に移れば、大名の支援なくしては領地を治めることさえできない弱い存在となってしまう。豊臣政権という大きな権威の下で、毛利家は政治体制を改革することができたはずである。

また、信長や秀吉が戦争に滅法強かったのは、兵農分離によって機動力のある常備軍を編成したためであった。九州移封は毛利家にとって兵農分離を図る機会でもあった。当時の武士の多くは戦争がない期間は農民として土地を耕す者がほとんどであった。上杉家の軍事行動が秋の収穫を終えて、春の種蒔きが始まるまでの半年間に限定されていることはよく知られている。しかし、国替えはそうした半分農民、半分武士といった多くの人々に武士になって移住するか、農民として土地に残るかという究極の選択を突き付ける。

徳川家は実際に関東移封によって石高を倍増させただけではなく、集権体制を築き上げ、兵農分離による常備軍の設立にも成功している。国替えによって近代的な大名へと変化を遂げたことが、秀吉死後の家康による天下取りを可能にした。毛利家の九州移封が実現していれば、秀吉死後の権力闘争において毛利家は史実よりも積極的に動くことができていたに違いない。毛利家が西日本の諸大名を味方に付けて、徳川陣営を破っていた可能性もある。その場合、徳川家が関東から京都に至る広大な地域を治めたように、毛利家も九州から京都に至る地域を治めて、西日本に毛利幕府なるものを築き上げていただろう。

毛利幕府の拠点は豊臣政権と同じく大坂になる。大坂は既に日本経済の中心地であり、瀬戸内海と山陽道を通じて毛利家の新たな本拠地となった九州からもアクセスしやすい。史実においても、江戸時代を通じて大坂は商業の中心地としての地位を保ち続けた。もし政権が東日本に移っていなければ、大坂は史実以上の発展を遂げただろう。そして大坂と博多をつなぐ山陽道は史実における東海道のような発展を遂げていたに違いない。毛利家の一門が西日本の要所に配置され、備前岡山、肥後熊本、伊勢津などが御三家の城下町となっていたかもしれない。徳川幕府が東国を独占しようとしたように、毛利幕府も西国を独占しようとする。日本を分断する敦賀-桑名のラインを最前線として、主要な外様大名を東日本に押し込める。海外との貿易を神戸と博多の港に限定し、西日本を中心とした貨幣経済を確立すれば、経済力において毛利家の右に出るものはいなくなるだろう。

19世紀後半から日本の近代化が始まるが、関西の金融業と繊維産業、北九州の石炭産業と鉄鋼業に代表されるように西日本は近代明治の中心であった。毛利幕府が成立していたとすると、西日本のみが発展する歴史を辿ることになる。東日本には日本の外貨獲得の手段となった生糸の産地が多く存在するが、西日本の財界が流通を独占していれば、富は東日本ではなく西日本に流れ込むことになる。ドイツが東西で経済水準に差があるように、日本経済も東西で大きな隔たりができていたかもしれない。

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